買ったばかりの車がキュルキュル鳴るので車屋の整備に持って行った。
念の為車に詳しい知り合いに一緒にきてもらった。
私が説明不足だったのかわからないけど「キュルキュル鳴る」と伝えて動画も見せた。
そしたら整備もせずに仕方ないで済まそうとしてきた。
知り合いが「そもそも雨の日にキュルキュルなるなんてことは普通ないけどね」って言ったら「そうですよね」と。私は「じゃあおかしいってことでしょ?」って聞くと「はい」と。じゃあ直してきてって言ったら初めて整備をしていた。
それにめちゃくちゃ腹が立った。
ちゃんと見ようとせず、確認もせず、私の不安を“仕方ない”で片づけようとされたこと
知り合いが言った途端に態度が変わったこと
私一人の訴えでは軽く扱われた感じがしたこと
ここが痛かったんだと思う。
レゾナントで聴いてもらった時に
「受け容れる」とか「許し」とか「含む」みたいなニーズがあると思うと言われた。
それはあるんだけどそのもっと手前に自分を受け取れていないことがあるなと感じた。
私は腹が立っている。
私は軽く扱われたと感じている。
私は怖かった。
私は助けが必要な立場に置かれるのが怖い。
そこが受け取れていなかった。
私は腹が立った時、整備士を受け容れられないと思った。
そこには悲しみがあり、本当は受け容れたい。受容できる器になりたいと思っている。
人にやってあげれないものは自分にもやってあげられない。
私は自分の何かを受け容れられていない。
それは何か?
“弱さ”だと思った。
私は自分の弱さを受け容れられていないと思った。
自分は弱いと人の助けを借りなきゃいけないから。
人の助けを借りるのは怖い。だって裏切られるから。
人は弱い人をバカにするし搾取するから。
そう、それが怖い、それを避けたい。それで人生生きてる。
本当は弱いままで愛されたかった。
騙されたくなかったし、バカにされたくなかった。
命に何があったのか?
弱いということでそのままを愛されなかった悲しみ、絶望感があった。
これを自分で受け取れた時に私はニーズに繋がることができるんだなと思った。
私の中では、
弱さ=助けが必要になること
助けが必要=相手に主導権を握られること
主導権を握られる=バカにされる・騙される・搾取される・捨てられる
になっている。
だから、車の整備の場面でも命の奥ではこう感じたんだと思う。
「私は今、弱い立場にいる。
車のことは相手の方が詳しい。
私は頼らざるを得ない。
この状態で雑に扱われたら、私は騙される。
私は搾取される。
私は守られない。」
それは怖い。
本当に怖かった。
私の命にあったのは、
弱かった私が、弱いまま守られなかったこと。
わからないまま、できないまま、不安なまま、愛される経験が足りなかったこと。
弱さを見せたら、責められる・利用される・軽く扱われる、という絶望を覚えたこと。
だから今、私は弱くならないように、舐められないように、騙されないように、必死に見抜こうとする。それは悪いことじゃない。私を守ってきた力でもある。
ただ、「弱いと搾取される」という前提だけで生きると、助けを受け取る力まで閉じてしまう。
そして、全部を自分で見抜き、自分で守り、自分で戦う人生になる。
それは強く見えるけど、ものすごく孤独で疲れる。というか疲れている。
私が自分を受け容れるところは、
私は弱い。
わからないこともある。
助けが必要なこともある。
でも、それはバカにされていい理由ではない。
搾取されていい理由でもない。
弱い私は、守られていい。
弱い私は、愛されていい。
ここを何度も経験し、神経に大丈夫な記憶を覚えさせていく。
私が今感じているのは
「弱い存在が、弱いまま尊重される世界を私は本当は欲しかった」
という、とても根源的な悲しみだと思った。
怒りの奥に「受け容れたい」「本当は弱いまま愛されたかった」がある。
でも順番を飛ばしてはニーズに繋がれない。
まず、相手を受け容れるんじゃない。
まず、相手を受け容れられないほど傷ついた自分を受け入れる。
まず、弱さを怖がっている自分を受け入れる。
まず、弱いまま愛されたかった自分のところに、私自身が戻る。
そこからしか、本当の受容は始まらないと思った。
だからレゾナントで聴く時も、ニーズが頭の中で浮かんでも
きちんと相手の感情を一つずつ受け取らないといけないんだと
身をもって知った。

