最近私は一週間同じバディと話を聴き合うことをしているのだが、
あるバディと一週間聴きあったときに、変なことになった。
その人の話は「受け取ってもらえない」というところにあった。
感情を切るし、相手を見切る。
そこに何があるか感じてみようとしても切っているから感じれない。
でも同じ話ばかりする。
「怖い」は受け取ってもらえたが、少しでも痛みに触れそうなら「それはない」と言って、それでも同じ話をするのだ。
私は若干うんざりしていた。
そして最後には相手に、「きちんと技法ができていない」と注意された。
私はモヤっていた。
私がなぜモヤっているかというと
相手が自分自身で感情を感じる責任を放棄しているように感じたからだ。
相手が感じれない感情を感じる責任をこちらに丸投げしている上に
正しく感じれていないと技法を持ち出して注意されたことに対して腹が立った。
しかし私はその点について相手に伝えた。
「あなたは感情を切ってるし蓋をしているから受け取らない。
でも同じ話を何度もするし受け取って欲しいのはわかる。
でも触れられたくないこともわかる。
だから触れている。でも私も怖い。
そこが反応するってわかってるから。」
と言ったらそれでも一緒に聞いてほしいと言われたので
では「それはない」ではなくて一旦それがあるか探ってください、とお伝えした。
相手は呆気に取られていた。まさか格下からこんなこと言われるとは思ってなかっただろうと思う。
私はこの出来事とばななさんの記事のことがあって、
なんだか洗脳が解けたように感じていた。
この道が正しいと思いすぎたり、この人がいうことは正しいと思うことはとても危ういと思った。
自分の痛みを直視できず、その道を辿ることでマシになると思ってやっていることはただの麻薬に過ぎない。
もちろん全部が嘘だったわけじゃない。
嘘だったのは、
「この道にいれば必ず深く成熟した人たちと出会える」
「ベテランなら自分の痛みと向き合えている」
「技法(みいちゃんの教え)があれば受け取り合える」
という私が勝手に抱いていた幻想の部分。
私はこれからは次のことを大事にする
1. 技法(みいちゃんの教え)より、自分の体感を上位に置く。
「この人と話していて、私は広がるのか、縮むのか」
「私は相互性を感じるのか、一方的に持たされているのか」
ここを最優先にする。
2. 「聴く」と「責任を負う」を分ける。
相手の話を聴くことはできる。
でも、相手が感じない感情を私が代わりに感じる必要はない。
3. ベテラン・先生・有名人を絶対化しない。
尊敬してもいい。学んでもいい。
でも、相手を絶対化しない。
「この人は何を見ていて、何から逃げているのか」を冷静に見る。
4. 自分の怒りを信頼する。
怒りは「ここは違う」と知らせるサインとして使う。
5. ちゃんと生きる、を具体化する。
生活を整える。身体を整える。仕事で誠実に作る。信頼できる人を選ぶ。
そして、感情や魂の話を“現実から逃げるため”ではなく、“現実をより誠実に生きるため”に使う。
今回私は、自分を取り戻したんだと思う。
自分の感覚を、権威や技法より信じていいと思った。
この先は、誰かの道を信じるより、私自身が見たものを信じようと思う。

