吉本ばななさんの有料記事がSNSでトレンドになっていたので、何事かと思い、すぐに購入して読み始めた。
私は小学生くらいの頃から、ばななさんの本を読んでいた。
そこには、独特のヒーリング効果のようなものがあった。言葉に触れると、どこか深いところが静かに癒されるような感覚があって、私はずっと好きだった。
大人になってからも、ブログを読み続けていた。
ホ・オポノポノも、プリミ恥部さんも、星読みのyujiさんも、私にとっての入り口はばななさんのブログだった。
思えば、私のスピリチュアルやヒーリングの世界は、かなりばななさんの影響を受けていたと思う。
ここ数年は購読をやめていた。
なんとなく、感覚が少し古くなってきたように感じていた。たぶん、ばななさんが変わったというより、私自身が変わってきたのだと思う。
今回の記事も、最初はクラウドファンディングに関するものだとは気づかず、いつものブログの延長のように読み始めた。
けれど、あまりにも内容が濃く、途中から説明も出てきて、「ああ、これはクラファンの文章なんだ」とわかった。
用事などがあり、読み終えるまでに少し時間がかかった。
その間、ずっと私の中にズドーンとした暗いものがあった。
私は、ばななさんのことを、勝手に「乗り越えた人」だと思っていた。
痛みを抱えながらも、それを美しい言葉に変え、世界に差し出し、多くの人を癒してきた人。
その人が歩んできた方向をたどれば、私もいつか抜けられるのだと思っていた。
どこかで、私は幻想を抱いていたのだと思う。
「統合した人は、何をやってもうまくいく」
「痛みを美しいものに変えられる人は、きっとその痛みから自由になっている」
「この道を進んでいけば、いつか全部が癒される」
でも、読み終えて、
「ああ、そういうことだったのか」
と思った。
私が勝手に作り上げていた「統合された吉本ばなな」像が崩れた。
それは失望というよりも、もっと深いところで、自分が長年信じてきた救いの地図が揺らぐような体験だった。
ああいう小説が書けるのは、こういうことだったのか。
あの独特の癒しは、こういう痛みから生まれていたのか。
そして私はたぶん、ばななさん系の痛みを薄めたようなものを、自分の中に持っているのだと思った。
だからこそ惹かれたし、癒されていたのだと思う。
世の中の美しい芸術が、痛みから生まれることはわかる。
痛みがあるからこそ、人の心の奥に届く表現が生まれることもある。
その表現によって、救われる人もたくさんいる。
私自身も、そのひとりだった。
でも今回、強く思った。
人を癒している場合じゃないんだな、と。
それがその人の生きる戦略だったとしても、
世界中の人に影響を与えていても、
多くの人を救っていたとしても、
たとえその作品がこの世に存在しなかったとしても、
私は、ばななさん自身が幸せになってほしいと思った。
これからは、命をかけて自分自身を幸せにする道を歩んでほしい。
そんなふうに、祈るような気持ちになった。
そしてそれは、ばななさんに向けているようで、同時に自分自身への言葉でもあった。
美しい文章を書くこと。
誰かを癒すこと。
スピリチュアルな世界を信じること。
ヒーリングで一時的に楽になること。
深い気づきを得ること。
それらは全部、大切なものではある。
でも、それだけでは根本治療にならない場合がある。
宇多田ヒカルさんは、外から見える範囲ではあるけれど、専門的なカウンセラーの支援も受けながら、自分を自由にしていっているように見える。
痛みを才能だけで処理するのではなく、専門的な助けも借りながら自分をほどいていくこと。
今回の記事を読んで、私はその大切さを強く感じた。
私も、自分のことを本気で幸せにしなければいけないと思った。
命をかけて、自分を幸せにする。
それくらいの覚悟が、今の私には必要なのだと思った。
気づかないふりをして放っておいても、痛みは消えない。
それは才能になったり、文章になったり、優しさになったり、人を癒す力になったりすることはある。
でも、本人の中にある穴がそのままなら、安心は埋まらない。
根拠のないスピリチュアルは、もうやめようと思った。
正確には、スピリチュアルを全部捨てるという意味ではない。
自然とのつながりや、魂の声を聴く感覚や、目に見えないものへの感性は、私にとって今でも大切なものだ。
でも、それを治療の代替にしてはいけない。
根本治療にならない逃避は、ばななさんのお姉さんの猫と同じだと思う。
いくらお金を費やしても、ブラックホールのように消えてしまう。
そういうものが、今の世の中には多すぎるとも思う。
もっと時代が進んで、AIも進化して、心や精神の分野がもっと発達すればいいのにと思う。
信頼できるカウンセラーに出会うには、お金も時間もかかる。相性の問題もある。
本当に必要な人に、本当に必要な支援が届くようになればいいのにと思う。
今回、私が憧れていた、なんなら「こうなりたい」と思っていた人が、私の想像とは違う場所にいるように見えた。
そのことで、自分がこれまで良いと思っていたものが崩れるような感じがした。
でも、それはただの崩壊ではなかったのだと思う。
私はもう、痛みを美化して生き延びる道ではなく、自分を本当に幸せにする道へ進みたい。
人を癒すことで、自分の痛みを正当化しなくていい。
美しい言葉に変換して、命を削らなくていい。
魂の使命のようなものにして、現実の寂しさや怖さを後回しにしなくていい。
私は、命をかけて幸せになったほうがいい。
これは大げさな言葉ではなく、今の私にとって本当に必要なことだと思う。
今まで私は、命をかけて理解されようとしてきた。
命をかけて、人とつながろうとしてきた。
命をかけて、自分の痛みを意味あるものにしようとしてきた。
でもこれからは、命をかけて、自分を安心させたい。
命をかけて、自分を幸せにしたい。
命をかけて、痛みを作品や役割や誰かの癒しに変える前に、自分自身を自由にしたい。
ばななさんへの憧れが壊れたのではなく、幻想の上に置いていた憧れが、もっと現実的な祈りに変わったのだと思う。
私はばななさんの作品に救われてきた。
そのことは変わらない。
でも今は、作品が世界に残ること以上に、その人自身が幸せであってほしいと思う。
そして同じことを、自分にも言いたい。
私は、私自身を幸せにする。
もうそれを、後回しにできない。

