人間には、生存本能というOSが備わっている。
私たちは、脅威から自分を守ろうとする力と、
体験し、感じ、生きようとする命の力の、
その両方に動かされている。
命が体験したいことを、
生存本能が「危険だ」と判断して止めることはよく起こる。
でも、生存本能は敵ではない。
なくすものでも、戦うものでも、無理になだめるものでもない。
それは、命を守ろうとしてきた古い知性なのだと思う。
だから、生存本能が起動したときは、
それを責めたり抵抗したりするのではなく、
そのとき自分の中にどんな感情が起きているのかに意識を向ける。
ああ、私は今、とても怖いという体験をしているんだな。
これは、私にとってそれだけ大事なものがあるからなんだな。
そうやって、身体の中に起きている感触を感じながら、
風景を見るように眺めていく。
すると、自分がどんなときに反応するのか、
何を握りしめているのか、
何に抵抗しているのかが、少しずつ見えてくる。
人の話を聴くときも同じだと思う。
この人はいま、どんな体験をしているのだろう。
とても怖かったのかな。
何かがなくて、不安だったのかな。
本当は何があればよかったのかな。
そうやって、相手を変えようとせず、
役に立とうともせず、
解決しようともせず、
感じさせようともしない。
ただ、窓の外の天気や風景を眺めるように、
そこに起きているものを感じてみる。
今日は雨だな。
風が強いな。
涼しいな。
嵐のようだな。
その人の言葉の奥に、
なんとなく恐れがある。
不安がある。
寂しさがある。
そんなふうに、自分の身体の中に感触が立ち上がってくる。
それは、相手の体験を決めつけることではない。
自分の中に生まれた感触を、「これかな?」と差し出してみることだ。
同じ感触を確かめ合うような時間。
心模様の風景を、スケッチするような感覚。
それぞれの風景があり、
それぞれが、美しく豊かな現れである。
これが少しずつできるようになると、
感情の波に呑まれる頻度や深さが、少しずつ変わってくる。
もちろん、今でも色々起こる。
怖さも怒りも悲しみも出てくる。
それでも、どこかに感じられる余白がある。
自分の感情やニーズを感じ取れる感覚がある。
だから、自分への信頼が少しずつ育っている。
おそらく、これを一歩一歩、丁寧に続けていくことが、
私の人生なのだと思う。
ニーズにつながることは、人生の羅針盤だ。
自分が何をしているのか。
なぜそれをしているのか。
何を守ろうとしていて、何を体験したいのか。
それを理解していくことが、
自分が本当に体験したい現実を創造するために必要なのだと思う。
そして、うまくできない私もまた、
何かを必死に守っている。
だから、その私とも戦わない。
ただ、そこに起きている風景を見る。
感じる。
理解していく。
これは、自分という命を受け取り続けるジャーニーなのだと思う。

