生存本能から抜ける

Mental model

生存本能からの判断なのか、それともそうじゃないのかを試される出来事が最近頻発している。
私は1週回ってメンタルモデルが愛なしかもしれないと思っている。
愛されないのはポンコツだからだという回避 欠陥欠損だったと思う。

私は自分の存在をないことにされたり
邪魔だと思われたり
あるがままを否定されたり
支配されたりすることが怖い

自分を無くして誰かに合わせたり
枠の中に入れて出ないようにしたりして
自分の形を変えて相手に迎合したり
役に立とうとしたりしてきた

だけど搾取されるばかりで奴隷のようになるのも辛かった。

それは結構20代で気づいて止めようと思って
今度は克服で価値なしっぽいことをしていたと思う。

こんだけできるから文句ないよねって思ってた。

だけどそれでも切られまくる。
分断。つながりがたたれるという痛みをたくさん味わった。

今は先輩が名役者として私の痛みをつっついてくれる。
でもその度に自分自身に「怖いよね」とか「この痛みや不快感を感じていいんだよ」
って声をかけるようにしている。

そうするとどんどんその恐怖に対するリスクヘッジをしなくて済むし、
何かされたときにうわ〜〜となってやり返さなくて済むし、
その分やりたいこと(こういうブログ書いたり)ができるし、
痛みから自分の望みがわかるのでとっても効率的になってきた。

自分の痛みがわかると、生存本能が本当に穏やかな働きになる。
そして他人がそれに駆動させられていることもわかる。
怒りっぽい人が不安が強くそれを感じる術を知らないこともわかる。

本当に人は自分の痛みに気づかない限り、生存本能に追い立てられる。

私が最近4日連続くらいで自分の生存本能が駆動するのを
自覚的になれた出来事がある。
(蠍座新月でまじで畳み掛けてくるようにおこるw)
まず1つ目は温泉に浸かってたら横にきたおばさんがスマホをいじり出したこと。
私は怒りと恐怖で心臓バクバク。頭の中は「こいつに一言何と言ってやろうか、私が不快な分こいつにも不快感を味合わせてやる」みたいな思考。でもその下には自分のこの不快感をわかってもらえない悲しさがいる。普通言わなくてもわかるだろということを分からない人への恐怖、無理解への苦しみがあった。
私がまずしたことは心臓のバクバクに気づき、胸に手を当てて目を瞑り、「怖いよね」と言った。
無理解が怖いのだ。
落ち着いてきたらフロントに連絡し、注意しにきてもらった。
私はもう入る気にはなれなくて脱衣所で着替えていた。
ホテルの人は「もう大丈夫ですよ」と言って出て行ったが本人はスマホを置きにもこないしそのまま温泉に浸かっているのである。
ここでも生存本能が暴れ出す。無理解に苦しむ。
そこで私はとりあえず散歩することにした。
「あのおばさんは隠し撮りする気などさらさらない」ということはわかった。
そして自分に「本当に命が危なかったか?」と自問した。
いや、危なくない。ただ私はやっぱりスマホは温泉に持ち込んだらあかんし、その人は退館して欲しいと思った。それは誰もが安心してその場にいることがニーズだから。それは施設に求めようと思った。

次の日は上司が休みの日で先輩がまた黙って外出して1時間帰ってこないということが起こった。
私はイライラする。「黙って外出していいなら私もする!損してる!」という正当化と、「こいつなら黙って外出していい」と思われていることにめちゃくちゃ痛みポイントを突かれていた。舐められている。軽視されている。その時もまずは自己共感。
「あー私の痛みポイント触れているのね。痛み感じていいよ。不快感じていいよ」で落ち着く。
同僚に聞いてもらうのもすっきりする。
「私の命は本当に危ないか?」と自問する。何っにも影響ないよねとわかる。
なんか気分良くなる。先輩が帰って来る。外出じゃなくてヘルプだったと気づく。自分だっさーってなる。笑ける。
ということがあった。

そして今日は、他部署の私への連絡を先輩が受け、その共有をわざと私のことを軽視してますと言わんばかりに送ってきたことである。
他部署Aマネージャーが部下のBさんに私宛に連絡させると言っていた件があった。
私が不在だったので先輩がメールで私のチーム(チームは私・先輩含め3人)に送っていた。
共有はしないと怒られるので上司宛。宛先は上司、CCにチームの三人。なぜか先輩は自分もCCに入れることで私を軽視していますというメッセージにしたいようだった。

これをみた時に思考がまず動く。「誰に見せようかこのメール。Aマネージャーに見せようかな。先輩がどれだけ性格が悪いかをみんなにわかってもらいたい」
でもいつものように心臓バクバクはない。頭に血が昇る感じもなかった。
私の痛みが触れているな。でも先輩も私をみてしまうと負けちゃうから見れないんだな。その恐怖は死へと直結するだろうしまあその怖さは種類が違うけどわかる。と理解すると落ち着く。

そしてその後、母親からライン。
飼い犬を(コーギー)病院に連れて行ったら自動ドアの外からハスキーが2匹入ってきて飼い犬を噛んで振り回しだした。
母は叫んで助けを呼んで看護師さんがハスキーを捕まえてくれた。
軽傷で飼い犬は落ち着いているが自分はパニックなりかけだ。
というような文面だった。

読んでいて心臓バクバクだった。生存本能が思いっきり駆動した。焦りもある。
何よりも怖い。そして無力。大切なものが傷つけられて何もできない。怖い。

とりあえず自己共感。「怖いよね」もうこれだけである。
それをしたら母親に「怖かったね」と送った。
「怖かったよー」と返ってきた。

姉はそれに思いっきり反応して
ものすごい勢いで「相手は誰だ」「ただで済まさない」「許さない」と送っていた。
ああ、これが生存本能か。と思った。

この4つの出来事で私は生存本能から生きるのか、それともそこに引っ張られずに自分が見たい世界のために意識を使うのかを試された気がした。

ちなみに私は穏やかな性格ではない。
今までなら確実に言い返しているし不快を相手に倍返しだ!と思っていた。
でもこの世界観を知ると、私は相手とわかり合いたいはずで繋がりたいはずだよな、と理解する。
そして何より痛みと不快感はあっていい、感じていいと思うことは世界をひっくり返せる。
そうすると今まで避けたくてしょうがないことが相手の痛みを理解することに変わる。
損しているように見えるかもだけど、みいちゃんも白旗あげるみたいなもんだと言っていた。

恐れは無くならない。痛みもあるが、「感じて良い」になることは格段に人生を進化し、飛躍させる気がする。まだまだスタート地点だけど、これからが楽しみである。