Noと言われる練習をしたあと、なぜか逆説的に自分がNoを言えることを許せるようになった。私は先輩に対してNVCを使いたくない!と自分のニーズを自分で受け取れるようになった。
ChatGPTを駆使して先輩のハラスメントを時系列に記録してみた。
もう立派なハラスメント案件だった。
私はそれすら容認するように自分に課していたなと。許さなきゃというか、理解したら良くなるはずとかそういう言葉で自分を苦しめていた。
私の魂は「許さない」って言って欲しくてこの現実を起こしていたんだなと今になって思う。
私は人生で初めて「許さない」を自分に容認できた気がした。
私は会社に先輩をちゃんと処置してほしいと頼んだ。
それは罰することではなく、私の安全を確保するため適切な距離を取ってもらい、私の仕事に介入させないこと。
そしてちゃんと先輩の心理的背景にあることを理解した上でその言動は許されないことだと明確に伝えてほしいと言った。
ずっと私のせいだと思っていたのは自分で、「私のせいじゃない」って怒っていたけど、私の今の境地は、「私の尊厳を踏みにじって自分の優位性を保とうとする奴には適切な処置を」という静かな怒りを感じている。
私がなぜ自分の自尊心を踏みにじられることに鈍感なのかというと、やはり幼少期に母親にされたことが当たり前だと思っていたからだと思う。
私は思春期の頃から20代頃まで怒りがすごく大きく、自分の怒りを取り扱うのにものすごく苦労した。多分私が怒っていたのは私の尊厳踏みにじるな!ってことだったんだと思う。
でも私は捨てられたら生きていけないから誰かと繋がっておかないといけないから役に立たなければというスタンスだったので自ら自分の尊厳を踏みにじられにいっていた。
いい加減に人の目を気にするのやめたいっていう声が上がっているのも知っていた。
だけどそれがどういうことなのかわからなかった。
私が怖いのは、嫌われたら安心がなくなる。
誰かに愛されていたら安心。そういうものだった。
私は今やっと本当に嫌われて不安で怖い思いをしても、自分の尊厳を守りたいと思えた。
やっと少しだけ自分の味方になれたんだと思う。
この課題はクリアでいいかしら?
さて次は何が来るかしらね。。
Noと言えた日

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