最近のちょっとしたいざこざを整理するためにも書いておこうと思う。
私がAからのプレゼントでBに善意で譲った物があったのだが、AはBが私に譲ったと思っていて、Bにさらにプレゼントを用意したということがあった。
それを説明したら、「何さらに欲しがってるん?Bにもらえよ」みたいな感じで言われ、雑に扱われたと感じた。
私は自分の善意が完全にないことにされ、詳しくは書かないが3重に損した気分になった。
私がわかって欲しいことといえば善意を無くされた上にさらに欲しがるやつだと認定されたことだった。
そしてそれを悲しいし怒りが湧くと言ったら、Aは攻撃されていると感じたのか違う事象を引っ張ってきて「お前も悪い、だからおあいこ」みたいなことを言ってきた。
いやいやそれは謝る、でもこれとは別だと言ったら「もう話したくない」と言われた。
これが大まかなあらすじ。
そのあと「私は欲張りなやつだと扱われたのが悲しかった」と送っても
既読スルーだった。
私には到底理解することはできないが、自分が間違えた、自分が悪いことをしたと認めることが自我が崩壊するような出来事に感じる人がいるんだなと言うことは理解した。
私は善意がないことにされた上に非難される、といった「ないことにされる」「誤解される」ことにものすごく反応する。
そこが反発しあって、どうしてもわかりあうことができなかった。
そこで自分のニーズはなんだったのかなと思った。
私は相手に理解を求めているうちは自分のニーズは満たせないことは薄々わかっている。
(どうしても許せないが)
じゃあなぜ私はここまで“ないことにされる”ことに反応するのか?というところだ。
私は、存在の確定や安心感を他人の理解に委ねてきたところがある。
それでも、理解がなくても私は善意で行ったし、私はここにいる。
消えない。
誰にわかってもらえなくても、
在るものは在る。
ちなみにプレゼントで私がBに譲ったものはタキシードサムのぬいぐるみである

