誰かに一緒に感じてもらえるということ

NVC

職場で先輩に無視され始めて1年たった。
ということは彼と別れたのも1年前。
何だか最近思い出すなあと思っていた。
おそらく季節のせいだろうと思う。

そんな先輩に最近電話を引き継いだら
電話すら無視して取らないということが起こった。

同僚に話したら、「モヤモヤもある。先輩を気持ち悪いと思う気持ちもある。でもほっときゃいいのよ」
と言ってくれた。自分の不快感を一緒に感じてくれた上で否定もせず、
でも何もしてこれない先輩のことはほっといたらいいじゃんって。

私はとっても落ち着いた。

帰ってから何となくまたみいちゃんのお金の本を開いたら
痛みから人を傷つけるようなことをゆう人に
「あなたにはまだ自分自身で受け取れてない痛みがあるんだね」
というところから関わることが愛じゃないかという内容が書かれていた。

ああそうかと。先輩は私に下に見られたらヤバいっていう恐怖があるんだなと感じてみた。
ああそれは怖いだろうなと思った。

そしてそういえば彼はどうだったんだろうと記憶を辿ってみた。
彼は無力感が耐えられないと言っていた。
私に助けられる側の存在であることが耐えれないみたいだった。
私と近づけば近づくほど自分の無力さが露呈してしまうことを恐れて
距離をとっていたことに気づいた。
私は距離を取られることで存在が拒絶されていると受け取っていたので
生存本能が刺激されまくり負のスパイラルに陥っていた。
相手に「痛みがあるんだね」というスタンスに留まることができなかった。

先輩も彼も「自分が無力だと存在できない」という恐怖を抱えているところが同じだったんだろうな。
私は先輩と彼では彼の方が拒絶される痛みが強く出るので耐えられなかった。
先輩は結構どっちでも良くなってきているので生存本能の反応が薄くなってきた。
だから感じれたのもあるし、
自分の痛みがわかったこと、
痛みをそのまま感じてもらう経験が増えたことが
自己受容に繋がったと思っている。

自分の痛みを受け入れたところからしか
相手の痛みは受け入れられないんだなと今回の経験でわかった。

だから誰かにエンパシーしてもらって
痛みをそのまま一緒に感じてもらえるということは
とても癒されるんだなと腑に落ちて感じた。

だから私は次は誰かにそれをしたいなと思う。
痛みをそのまま一緒に感じてもらうことは
私が経験した中で一番欲しかったものだと感じたからだ。

そして私のニーズは
痛みを痛みのまま否定しないで感じてほしい
理解し合いたい
つながり

であることに気づいた